先日、洋画家の藤田嗣治の展覧会と、オダギリジョーが藤田役で主演する映画「FOUJITA」を見に行きました。
藤田嗣治は、面相筆による繊細・軽妙な黒線と、独自に開発した乳白色の絵肌で女性の裸体を描き、パリ画壇の寵児になります。
日本に帰国後、独自の戦争画を確立して日本画壇の重鎮に上り詰めますが、第二次世界大戦の敗戦で、戦争画を描いたことに対する戦争責任を負わされます。そして、再度フランスに向かい、二度と日本の土を踏むことはありませんでした。
展覧会ではパリで寵児となった以後の絵がほとんどでしたが、1枚だけ人気が出る前にパリで描かれた作品が展示してあり、あまりの衝撃で、しばらくその絵から目を離すことができませんでした。
それは「パリ風景」と題された作品で、冬のパリの町はずれで一人の女性が手押し車を押している、暗い色調のさびしげな絵で、藤田嗣治の作品と言われなければ誰の絵かわからないようなものでした。
藤田は5年ほどルーブル美術館で模写し続けた売れない時期を経て、誰が描いたのかわからない絵を脱却し、浮世絵をヒントに日本人ならではの繊細な線描と絵肌で、誰が見ても藤田の絵とわかるほど差別化した画風を確立しました。
世界中から才能が集まってきたパリで生き残るために、自分にしか書けない日本人ならではの画風を見つけ出したのです。
藤田は絵だけでパリの寵児になった訳ではありません。ロイド眼鏡におかっぱ頭という独特の風貌で、夜な夜なバーで大騒ぎしたり、突拍子のないパーティーを開催したりして、フーフーと蔑称されるお調子者として名を売っていきます。
映画の中で藤田は「絵がうまいだけではダメです。名前を知ってもわらなければ、絵は売れないのです」と言います。その様子に対して、パリにやってきた日本人の画家達からは「そこまでやらなければならないのか?」と批判ともあきらめともつかない言葉が漏れます。
昨今、創業時から海外をめざす方が増えています。藤田が初めてパリに渡ったときから100年経ちますが、ビジネスの基本である差別化・認知という点では、今も当時も何ら変わることはないのです。
経営相談室 スタッフコンサルタント 泉 仁史が担当しました。
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(2015年12月16日公開)
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