この事例集では多くのM&Aについて紹介してきました。
うまくいった事例としては第7話、第22話、第56話がありました。
また、うまくいかなかった事例としては第36話、第52話、第58話、第68話がありました。
うまくいかなかった理由もそれぞれでしたが、今回は第58話、第68話に似た経営者が本心からM&Aを望んでいたか疑問が感じられるケースをご紹介します。
その社長にお会いしたのは20年以上前です。
会っていきなり言われたのは「M&Aの候補先を持って来てくれたか」でした。
初めて会う私にとっては寝耳に水。
よくよく話を聞いていくと、社長には子供もなく既に還暦を過ぎており、事業承継が喫緊の課題あることを社長もよく理解されていました。
そのため、以前からことあるごとに私がいた組織を含めていろいろなところへ「良い買い手はないか」と声をかけておられていました。
企業としては、社長が開発した技術によりニッチな市場ながらトップ企業として順調に推移していました。
とは言え、製造業だけに設備投資のために絶えずそれなりの金額の借入金があることは致し方ないところです。
こうした状況のため、自社株の評価はそれなりになっていたこと、当時は中小企業が銀行から借り入れをするには社長の個人保証が絶対条件であったことから、社員への承継は殆ど不可能でした。
そこで、当時一般化しつつあった中小企業のM&Aで課題を解決されようとされていたのです。
しかし当時は中小企業のM&Aの創成期。
社長が相談した銀行などの機関には、そのノウハウがありませんでした。
銀行に至っては金融行為以外での収益、M&A手数料収入などは認められていませんでした。そうした環境もあって、どこも十分な情報を提供することができなかったのです。
そうしているうちに社長のM&Aへの思いは萎んでいったようです。
ですので、あれから20年が過ぎましたが、まだ当時の社長そのままです。
既に80歳は超えられています。
なぜ現在までM&Aがうまくいかなかったかを考えてみますと、当時はまだM&Aが完全に浸透しておらず、周りからの支援が受けられなかったということに大きな理由がありました。
しかし、それ以上に社長自身に本当に会社を手放す覚悟があったのかと考えてしまいます。
後継者不在と言いながら本人は至って元気。
事業も順調ということで、事業承継が切実な課題とは思われていなかったのではと考えられます。
第7話で見たように、家族の将来に負担を残さず、事業と従業員雇用を守りたいという明確な理由がある会社売却と少し違った状況でした。
今回の社長の場合は、会社を売らなければならない積極的な理由が見つかっていないのではないでしょうか。
現状のままでも世間一般を超える報酬を得ることが可能ですし。
私が社長と出会ったころと比べると、事業承継の環境が大きく変わっています。
経営者保証の解除が行政施策として取り組まれるようななり、社員承継の可能性も広がりました。
また、M&Aを取り巻く環境も大きく変化し、支援する機関・会社も多くなりました。
そういった意味で、この会社の社長が80歳を超えていてもさほど心配の必要はないように見えますが、一方で自社株の価格はいったいいくらになっているのでしょうか。
少し空恐ろしい気がします。
(2021年3月23日更新)
担当:田口 光春(タグチ ミツハル)