20世紀初頭に創業し、戦後の日本経済の復興・成長とともにあった老舗企業の話です。
同社が扱っていた機械は日本のみならず海外にも名を馳せており、自他とも認めるトップメーカーでした。
当然ながら業績も順調、財務内容も抜群で何ら問題なく金融機関からの信頼も厚いものがありました。
その時の経営陣は、還暦に近い創業家3代目の社長と、歴史を反映するような社歴30~40年の社長の補佐役であるベテラン役員が構えていました。
また、後継候補として社長の長男が30歳前後で入社していました。
そして迎えたのが時代の大きな潮流、メカニカルからエレクトロニクス、アナログからデジタルへの変化です。
ところが同社はこの流れに乗ることができませんでした。
そこには「老舗ゆえに」の側面があったとも感じられます。
日本のみならず世界中で製品が愛用されていました。
「新たな技術へのチャレンジはそうしたファンを失うのではないか」という思い込み。
「既存製品で十分収益を上げられている」という甘え。
これらが社内の多くを占めたことに原因がありました。
さらに、社員構成の平均年齢が高く、保守的思想が蔓延し、新しい技術への取り組みには消極的だったのです。
しかし、当然ながら時代は待ってはくれません。
変化は会社が想像した以上の速さでした。
競合企業はこのタイミングを逃すものかという気概で新製品を世に送り、同社の市場を奪っていったのです。
気が付いた時には市場は完全に他社のものでした。
こうした状況に遭遇し、もちろん対抗策として、新しい技術による製品の改良や新分野進出も検討されました。
ところが、それらに取り組むには社内の技術レベルがあまりにも低すぎることが分かったのです。
自社独自で製品を一新させるには相当な時間が必要です。
公的な研究機関の支援や他社との連携も模索されましたが、それでもかなりの時間がかかる状況でした。
開発に必要な資金も、たとえ優良な財務内容であっても、見通しは厳しいものでした。
成果として果実を確実に刈り取ることができるか不透明で、どれくらいの時間と金を必要とするか全く先が読めませんでした。
社長が出した結論は廃業でした。
事業を継続しても、後継者に背負わせる荷物はあまりにも重く、その時点で廃業すればすべての関係者に迷惑をかけることがないだろうという判断の元でした。
そして淡々と廃業の手続きは進められました。
取引先や金融機関に対する債務の処理。
社員への割り増しした退職金支給と再就職のあっせん。
製品ユーザーに対するアフターフォロー体制の引き継ぎ。
また、驚いたことに株主に対しても出資金を返し、どこにも迷惑をかけることなく会社を整理されたのです。
それまでの財務状況から、社長の個人資産を提供する必要もなく、後継者にも応分の財産を残すことができました。
業歴一世紀を迎えようとした一つの会社がなくなり、雇用機会も喪失したということは日本経済にとって大きな損失です。
しかし、無理をしてでもあの事業を続けていたのがよかったのか、それとも廃業という形の方がよかったかは誰も検証のしようがありません。
ただ、その時点では従業員も含め不幸な人、会社以外には不幸な企業を生まなかったという事実は確かです。
担当:田口 光春(タグチ ミツハル)