今から20年以上前のことです。
とある社長と親しく話をする機会がありました。
その内容は社長のこころの叫びのように感じられました。
「俺は親父(先代で創業者)が嫌いだった」から話は始まりました。
社長の父親はいわゆる明治気質の人でした。
仕事には全力で取り組むが、それ以外は自由奔放。
仕事においては、年商50億円、社員200名の会社を一代で築き上げている、ケチのつけようがない人物でした。
しかしプライベートとなると、家庭を顧みることはなし。
いわゆる飲む打つ買うの三拍子の典型のような人であったとかで、自宅には殆どいませんでした。
従って父子の会話は全くなく、母親に母子家庭のような環境で育てられたようなものであったと回顧されていました。
「そんな環境から、よく後を継がれましたね」と質問したところ、「昔は父親の言うことは絶対で、他に選択肢が無かったからね」と話を続けられました。
学校を卒業する頃には、父親に将来のレールが敷かれていました。
会社の有力取引先で修行し、数年後には会社に入るように、取引先との間に話ができていたとのことでした。
入社後も、社内での役割や地位も父親の一言で決められ、なんら口を挟む余地は無かったそうです。
しかし後に振り返ると、経営者として必要な資質が自然と身に付くような配慮がなされていたことが分かったそうです。
会社に入って20数年が過ぎた頃に、後継者として専務に指名されました。
しかし、それまでも、それからも父親との会話は全く無く、一方的な指示と、後姿で学べという雰囲気が続きました。
そして、父親は死ぬまで「お前が後継者だ」とか、周囲に「倅が後継者だ」というようなことは一切言わなかったそうです。
それでも遺言は作成されており、社長には兄弟もいましたが、特に後継問題や相続で揉めることはありませんでした。
「親に決められたレールに乗らざるをえない人生はどうでしたか」とお聞きしました。すると、
「私には選択肢はなかったから、良いも悪いもない。ただ父親のことが嫌いであったから、父親のようにはなりたくないという気持ちを持ち続け、父親を反面教師にして社長職をしてきました」と仰いました。
そして最後に「父親は昔かたぎの人ですから、言葉で伝えようとはしませんでした。しかし振り返ると、私をいっぱしの経営者にしようと仕掛けていたことが、今更ながらに分かります。」と締めくくられました。
その社長も古希を過ぎ、既に第一線を退いておられます。
この世代が「黙って俺について来い」ということが通じる最後の年代ではないでしょうか。
今の時代、経営者が後継者に口に出して思いを伝えなければ、円滑な事業承継を成就できないと、常に思っています。
(2019年11月26日更新)
担当:田口 光春(タグチ ミツハル)