いわゆる重厚長大型の成熟した業界に属する会社の話です。
創業して50年余り、社長一代で会社を築き上げ、生き残り企業として成長性には乏しいものの、業界で一定の地位を確立し、一目も置かれる存在でもありました。
社長の唯一の悩みは後継者問題。
間もなく喜寿を迎えようとしているのに後継者が決まっていなかったのです。
子どもは女の子が一人、しかもその当時は会社経営とは全く縁のない美術教師でした。
ただ一縷の望みもありました。
それは娘が大恋愛を経て結ばれた配偶者が、大手企業で企画部門という経営の中枢にいたからです。
この結婚を大いに喜んだ社長は娘婿にラブコールを続けました。
後継者候補として入社をお願いしたのです。
しかし、なかなか首を縦に振ってくれません。
それは娘や配偶者が次のように考えたからです。
「業歴のある会社だけに、人材も育ち経営幹部も充実している。
社長の家庭環境も知られているので、『ひょっとしたら社長になれるかも』と思う社員もいて不思議はない。
もし婿という立場でいきなり、しかも落下傘で後継者が現れたら、彼らのモチベーションはどうなるのだろう。
そう考えると社長の申し出を安易に受けることはできない。」
とは言ったものの、父親の老いていく姿を見て何も思わない子どもはいません。
そこで出された夫婦の結論は、娘が後継者になることでした。
「経営にはズブの素人である娘が社長?」誰もがそう思うのは当たり前です。
そこには周到な考えがありました。
娘にはその経験から考えると経営のかじ取りは期待できませんでした。
サポート役・参謀として配偶者も同時に入社したのです。
また、社内にいらぬ波風を立てないよう役員にはならず、中間管理職としての入社でした。
直系である娘が継ぐことで、周囲は誰もが納得して受け入れました。
こうして無事社長交代が行われ、安心したのか前社長は承継後まもなくして黄泉の国に旅立たれました。
それから10数年が経過しました。
社長にお会いするといまだに「私は経営には素人です」と公言してはばかりません。
実は配偶者がしっかりサポートしてくれていることを暗に伝えているのです。
さらに、こうした環境におかれた社員、特に古参社員には、自ずと責任感が醸成されていました。
配偶者は、いまだに役員には就任していません。
たとえ娘婿という姻族の関係であっても、突然落下傘で社長となれば社内にいらぬ騒ぎが起きないとは言い切れません。
そういったリスクを夫婦が互いの協力のもとで乗り切ったこの承継は見事というほかありません。
そして、謙虚さで周りを巻き込んでいく社長に手を貸したくなるのは私だけでしょうか。
担当:田口 光春(タグチ ミツハル)