ビジネスインキュベーションプログラム|大阪の中小企業支援機関。 大阪産業創造館(サンソウカン)

中小企業の経営者・起業家の皆様を支援する機関。大阪産業創造館(サンソウカン)

CXとは「Customer Experience」の略称で、つまり「顧客体験」のことです。「どのような顧客体験を実現するのか」というのは、新規事業を考えるときの基点となります。どんな商品・サービスも、それ自体に価値が包含されているのではなく、顧客が体験したときに初めて価値として認識されるためです。
では顧客体験はどのように描けばいいのでしょう。単に顧客にとって良い体験とは何かをいきなり妄想して描くことは難しいです。仮に描けたとしても、それが事業として有効なのか、戦略に合致しているのかは分かりません。つまり顧客体験をDesignするとは、顧客体験を核とした事業システムをDesignすることに他なりません。
当連載ではCX Designをテーマとし、その要素をひとつずつ取り上げ、新規事業開発においてそれらをどのように考えていくべきかを解説していきます。

第4回顧客価値 Customer Value

デジタルイノベーションの時代

私たちは意識していようがいまいが、デジタルイノベーションの時代に生きています。1990年代後半から始まったインターネットの普及がその端緒と言われ、そこからおよそ40年をかけて、真のデジタル社会が到来すると言われています(※1)。そう考えれば、私たちが生きる2020年代は、ちょうどその只中にあります。
(※1 出典:森川 博之著 「データ・ドリブン・エコノミー デジタルがすべての企業・産業・社会を変革する」(ダイヤモンド社))

20年ほど前には、オンラインで物事を注文したり、会議や学校がオンラインになったり、多種多様なコンテンツをストリーミングで楽しめたりといった現在の暮らしが想像できなかったように、これから来る20年の変化を予測するのは難しいでしょう。メタバースやAIといった新しい空間や技術が生まれ、これまでのデジタル化したさまざまなサービスや業態や行動と結びつき、さらに相互に影響しながら濁流のように私たちの行動様式を変えていきます。とても面白い時代であると同時に、企業にとっては対応が難しい時代であるとも言えるでしょう

宅配サービスの顧客価値は「宅配」?

デジタルイノベーションの時代の多様な変化を捉えるのは難しいですが、到来しつつある時代が “Always Connected(常時接続)な時代”であることは間違いありません。私たちは生活者として、オンラインの空間と常時つながり、そこを介して企業や商品・サービスを選んだり、そこからの提案を受けたりすることができるようになっています。企業からすれば顧客と常時つながれるのだから、顧客の要望を叶える提案を行いやすくなります。
ただしその時に、「選択権は顧客にある」ことを忘れてはいけません。
単に商品・サービスを常時売りつけようとする企業やブランドと、顧客はつながりたいとは思いません。顧客から見て「つながっている価値」がある企業やブランドが選ばれます

このような「顧客にとっての価値」を「顧客価値」と呼びます。顧客価値の設定は、顧客体験を直接的に方向づけます。選択・購入・使用に至る顧客体験は、その結果として顧客が価値を感じるものでなければなりません。その基点を定めるのが顧客価値の設定です。

例えば米大手小売ウォルマートがコロナ禍に始めた新しい会員制サービスのひとつに、「InHome Delivery」というものがあります。これは文字通りウォルマートが家の中(In Home)にまで食品を届けてくれるサービスです。オンラインで商品を注文しておけば、留守中にウォルマートの店員が自宅の鍵を開けて台所まで入り、冷蔵庫の中に食材を補充して帰ってくれます。顧客はオンラインを介してドアロックを遠隔で開錠したり、スタッフが装着したカメラを通してその動きを確認したりすることができます。

ウォルマートはこのサービス価値を「宅配(Delivery)」ではなく「補充(Fulfillment)」に置いています。つまり「顧客は『宅配』を求めているのではなく、常に冷蔵庫に適切な食材が『補充』されていることを求めている。宅配はこのサービスの顧客価値ではなく、手段に過ぎない」と考えている訳です。これは「ジョブ理論(※2)」に見る顧客価値の考え方です。ジョブ理論の中核は、「顧客はある特定の商品を購入するのではなく、進歩するために、それらを生活に引き入れる。この『進歩』のことを、顧客が片付けるべき『ジョブ』と呼び、ジョブを解決するために顧客は商品を『雇用する』」と考える概念です。正に「必要な食材が必要な時に冷蔵庫に入っているという状態は顧客にとっての生活の『進歩』」であり、「その実現のためにこそInHome Deliveryというサービスを『雇用』している」と考えられる訳です。
(※2 出典:C. M.Christensen著「ジョブ理論 イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム」(ハーパーコリンズ・ ジャパン))

顧客が感じる価値の変化

「宅配」か「補充」か。この解釈の違いは単なる言葉の違いではなく、事業にとって大きな意味を持っています。仮にこのサービスの価値を「宅配」に置くとしたら、自宅の冷蔵庫まで届けている時点で、このサービスは完成型に至っていると言えます。しかし「補充」と考えると、まだ発展する可能性が出てくるでしょう。例えばウォルマートのスタッフが配達時に冷蔵庫の中を見れば、その顧客が卵やミルクなど日々必要な食材をどのくらいの頻度で使い切っているのかが把握できます。これに基づいていけば、ウォルマートは顧客に頼まれなくても「自動で補充しておく」ことができるようになります。そしてその最適化のためにこそ顧客行動データを蓄積し、AIによる補充の最適化をめざすに違いありません。そうなれば、顧客はウォルマートと「つながっている価値」を、体験を通して強く感じることになるでしょう。

奥谷孝司・岩井琢磨「Customer Value Pyramid」

つまり顧客価値をどのように設定するかは、顧客にとってその企業やブランドと「つながっている価値」を設定することに他なりません。それが商品・サービスを進化させ、他社とは異なる顧客体験を生み出すことになります。この「つながっている価値」の考え方を図で示したのが、上記の「Customer Value Pyramid」(※3)です。基盤になるのが製品などの基本的な「機能価値」、その上に成り立つのがサービス総体として感じる「体験価値」、さらにその上が顧客が求めるその企業と「つながっている価値」です。この価値構造を明確に認識することが、デジタル時代の顧客体験を創るためには欠かせません。
(※3 出展:奥谷孝司・岩井琢磨著「マーケティングの新しい基本 顧客とつながる時代の4P×エンゲージメント」(日経BP))

デジタルの時代が到来し、顧客価値は変化しています。機能性や体験性だけでなく、接続性が顧客による選択に影響します。顧客とつながる力の源泉はデジタルではなく、「顧客価値」です。デジタルで顧客とつながりたいというのは企業の都合であり、選択権は顧客にあります。これからは顧客価値を北極星とし、その実現のためにデジタルを活用する企業が生き残り、さらに競争力を増していくことになるでしょう。

講師プロフィール
岩井琢磨(いわい・たくま)氏

1993年博報堂DYグループに入社。インストア・プランナー、クリエイティブ・ディレクター、ブランドコンサルタントとしての企業再生プロジェクト参画を経て、2012年にコーポレート・コミュニケーション・センターのセンター長に就く。Chief Project Managerとして、製造業・流通サービス業界を中心とした部署横断型の事業変革プロジェクト、企業ブランド構築プロジェクトの設計・推進を数多く手がける。
2018年9月株式会社顧客時間を設立。共同CEO代表取締役に就任。Head of Managementとして、顧客時間に参画する多様なスペシャリストと共に、数多くの業界・企業におけるDXプロジェクト・事業開発プロジェクトのサポートを行っている。
早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了(MBA)。日本マーケティング学会理事。

著書に『マーケティングの新しい基本』(共著、日経BP社)、『世界最先端のマーケティング 顧客とつながる企業のチャネルシフト戦略』(共著、日経BP社)、『オムニチャネルと顧客戦略の現在』(共著、千倉書房)、『物語戦略』(共著、日経BP社)、『ゲーム・チェンジャーの競争戦略』(共著、日本経済新聞出版社)、『イノベーションの競争戦略』(共著、東洋経済新報社)、『職人軍団、教科書なきイノベーション戦記』(企画、日経BP社)がある。