CXとは「Customer Experience」の略称で、つまり「顧客体験」のことです。「どのような顧客体験を実現するのか」というのは、新規事業を考えるときの基点となります。どんな商品・サービスも、それ自体に価値が包含されているのではなく、顧客が体験したときに初めて価値として認識されるためです。
では顧客体験はどのように描けばいいのでしょう。単に顧客にとって良い体験とは何かをいきなり妄想して描くことは難しいです。仮に描けたとしても、それが事業として有効なのか、戦略に合致しているのかは分かりません。つまり顧客体験をDesignするとは、顧客体験を核とした事業システムをDesignすることに他なりません。
当連載ではCX Designをテーマとし、その要素をひとつずつ取り上げ、新規事業開発においてそれらをどのように考えていくべきかを解説していきます。
本連載の最終回は「イノベーション」です。ここまで取り上げてきたデジタル時代を背景としたCX Designの各要因を設計しても、最終的に求める事業の変革を起こせなければ意味がありません。CX Designは企業の内部要因を如何に顧客基点に起き直し、連携させてひとつの経営システムとして稼働させるかが焦点になります。しかしイノベーションはさらにその外側の環境変化が大きく関わります。社会変化をどのように捉えて、その中で何をコア技術として顧客心理をどう変えていくのか。その見立てが前提として必要になります。ではイノベーションとはそもそもなんでしょう。求める事業変革の姿を、どのような要点を持って見立てればよいのでしょうか。
デジタルの時代を迎え、多くの企業が既存の事業モデルからデジタルを前提とした「事業変革」を迫られました。DXという言葉は最初に出てきたときは馴染みがありませんでしたが、いまやDXという言葉自体は「過ぎ去った流行語」のように馴染んでいると思います。DXという言葉が使われていなかった時代から、デジタル化によって事業変革の必要に迫られた事例は多く起きています。デジタル革命が始まった初期にこれに直面した例としては、写真がデジタル化したことによって存続の危機に直面したフィルム製造企業が該当します。かつて写真といえばフィルムで撮影し現像に出して楽しむものでしたが、デジカメの登場によってフィルムはもちろん、それに連なる現像サービスなどの市場も消滅の危機に瀕しました。カラーフィルムの市場規模のピークは2000年頃ですが、当時の世界トップだったコダックを、富士フィルムが抜き市場首位に立ったのもそのころです。しかしそこから市場そのものが失われていくという環境変化に晒されていきます。市場規模の急激な縮小により、世界的企業だったコダックは2012年に倒産しました。富士フイルムは自社が培ってきたコア技術により市場を拓き、いまや売上の大半をヘルスケアとマテリアルズ領域で上げる企業に変貌を遂げています。
技術の急激な進化に対応した事業モデルを構築できなければ淘汰されるというのは、自動車技術の登場による鉄道業の変化、ストリーミング技術の登場による音楽業界の変化など多くの事例が思い浮かびます。現在でいえば生成AI技術の進化がどの業界を破壊するのかといった論が多く出ていますが、どの時代においても「技術」と「変革」は切っても切れない関係にあたります。だからこそイノベーションというと技術革新のイメージが強いかもしれません。しかしながら、技術革新はイノベーションを引き起こす要因ではありますが、イノベーションそのものではありません。このことについて早稲田大学名誉教授である内田和成氏はその編著作で以下のように述べています。「イノベーションとは技術革新そのものではなく、新しい価値によって顧客の行動を変えることである」(※1)。技術革新が起こっただけではなく、それによって「顧客の行動が変わる」ことに至ってはじめてイノベーションといえるということです。デジタルカメラの技術が生み出されたとしても、人々がそれを使って写真を撮り楽しむという行動変容が起きなければフィルムメーカーが危機に瀕することはなかった訳です。
では技術革新以外に、顧客の行動を変化させる要因にはどのようなものがあるのでしょうか。この疑問に対して、本書は「イノベーションのトライアングル」というフレームによって要因を示しています。
技術革新に並ぶもうひとつの要因は、「社会構造」です。社会構造とは、企業の背景にある社会や業界単位の変化を意味しています。人口動態や法規制など社会や業界全体の構造変化が対象になります。世界的には人口増加による食糧危機や気候変動による災害増加、いまの日本で言えば高齢化による労働人口の減少などが分かりやすいでしょう。直近ではコロナ禍によって移動人口が大きく減ったことは、例えば交通業界や旅行業界にとっては危機的な社会構造の変化ということになるでしょう。
もうひとつの要因は、「心理変化」です。心理変化とは、文字通り顧客となる生活者や企業の心理的な変化を指します。直近の例では、コロナ禍でオンラインコミュニケーションや在宅勤務への抵抗感がなくなってきたことなどは分かりやすい心理変化です。
これらの「技術革新」・「心理変化」・「構造変化」の3つが、イノベーションを引き起こす要因です。本コラムではこの3つの要因を「イノベーションを引き起こし加速させる」という意味を込めて、「イノベーションのドライバー」と呼びます。
この視座を持つと、イノベーションのイメージはずいぶんと変わります。Appleが生み出したiPhoneなどはイノベーションの代表事例で、新たなデジタルの技術革新を持ち込むことによって人々の暮らしを大きく変えたイノベーターです。しかしあまり技術革新といったイメージがない業界、例えば紙おむつも人々の生活を大きく変えたイノベーターということになります。単に布おむつをやめて洗濯が楽になったというようなことだけでなく、紙おむつが一般的になることによってその親たちの子育ては大きく変わりました。例えば小さい赤ちゃんを連れて外出することは、紙おむつがない時代には相当に難しいことだったと思われます。つまり赤ちゃん自身のことだけでなく、子どもを連れての移動といった行動にも大きな変化をもたらしているのです。
ちなみに紙おむつはその吸水性などの技術は優れていたのに、日本では発売当初は受け入れられませんでした。国内では1981年にユニ・チャームが純国産のテープ型紙おむつを発売しました。社会的には共働き世帯が増加し他企業も次々と参入したものの、普及スピードは非常に緩やかでした。当時は「紙おむつを使って育った子どもは発育が遅れる」といったことが真剣に論じられるほど顧客の心理的な抵抗は強く、やはり布おむつがいい、紙おむつは育児の手抜きだと考えられていたのです。新しい価値はいきなり大多数に受け入れられるのではなく、顧客の心理変化を捉えるまでに時間を要することがあるという良い事例でしょう。
既に紙おむつが当たり前になっている我々からすると、紙おむつにそのような抵抗があったことなど想像できないかも知れませんが、我々が生きる現代でもそのような事例はあります。たとえば昆虫食です。これからの社会において家畜のために大量の穀物を必要とする食肉習慣は、環境負荷の面からも持続的ではないとされています。その中でタンパク源として注目されているのが昆虫食であり、その市場成長には様々な予測がありますが、概ね2020年代の半ばには早くも世界市場規模1,000億円を超えるだろうとされています。日本でも多くの企業がその製品開発に挑み、少しずつ商品も増えてきてはいますが、いまはまだ昆虫を食べることに心理的な抵抗を感じる人たちは多いはずです。しかし数十年後に2020年頃を振り返った人々は、現代の我々が紙おむつへの抵抗があった時代を奇異に感じるように、「そんな時代があったのか」と信じられないような気持ちになるのかもしれません。
つまりイノベーションをめざすためには、技術だけでなく、顧客の行動をどう変えたいのかという見立てがなければならないということです。変化した顧客行動は、めざす顧客体験として描かれます。顧客体験を描き、その実現に向けて経営要因を設計して整合させていく。つまり「顧客体験が事業変革を導く」のです。いかに優れた技術を持ち、そのことを製品化しても、それが優れた顧客体験を生み出さなければ顧客から選ばれることはありません。新しい価値が体験として実現できなければ、顧客の恒常的な行動変容は起きません。
顧客体験とは店内や購買時点の体験を捉えるものではありませんし、もちろんアプリやサイトといった接点の体験だけをさすものでもありません。顧客が商品を選び購入し使う。そこまでの一連を顧客体験と捉えます。その実現にこそ、デジタル技術の台頭は大きく影響することをここまで述べてきました。デジタル技術を導入したからといって顧客体験がそれだけで良くなることや、経営環境が好転するものではありません。顧客体験を中心に置いて、その実現のための要因を整備し、連動させて初めて他社にはない顧客体験が実現します。そしてそれが、新たな市場を切り拓いていくことになるのです。
1年近くにわたったこの連載も、今回で最終回です。連載として皆さまのお役に立てたのか。その成否は私にはわかりません。しかし「顧客体験が事業変革を導く」。この言葉が読後感として皆さんの記憶に残ったのであればこの連載は成功といえるのだろうと思います。ここまで連載をお読みくださり、ありがとうございました。皆さんへの感謝をお伝えし、一度筆を置くことにします。
(※1)出典:内田 和成「イノベーションの競争戦略」(東洋経済新報社)
1993年博報堂DYグループに入社。インストア・プランナー、クリエイティブ・ディレクター、ブランドコンサルタントとしての企業再生プロジェクト参画を経て、2012年にコーポレート・コミュニケーション・センターのセンター長に就く。Chief Project Managerとして、製造業・流通サービス業界を中心とした部署横断型の事業変革プロジェクト、企業ブランド構築プロジェクトの設計・推進を数多く手がける。
2018年9月株式会社顧客時間を設立。共同CEO代表取締役に就任。Head of Managementとして、顧客時間に参画する多様なスペシャリストと共に、数多くの業界・企業におけるDXプロジェクト・事業開発プロジェクトのサポートを行っている。
早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了(MBA)。日本マーケティング学会理事。
著書に『マーケティングの新しい基本』(共著、日経BP社)、『世界最先端のマーケティング 顧客とつながる企業のチャネルシフト戦略』(共著、日経BP社)、『オムニチャネルと顧客戦略の現在』(共著、千倉書房)、『物語戦略』(共著、日経BP社)、『ゲーム・チェンジャーの競争戦略』(共著、日本経済新聞出版社)、『イノベーションの競争戦略』(共著、東洋経済新報社)、『職人軍団、教科書なきイノベーション戦記』(企画、日経BP社)がある。