CXとは「Customer Experience」の略称で、つまり「顧客体験」のことです。「どのような顧客体験を実現するのか」というのは、新規事業を考えるときの基点となります。どんな商品・サービスも、それ自体に価値が包含されているのではなく、顧客が体験したときに初めて価値として認識されるためです。
では顧客体験はどのように描けばいいのでしょう。単に顧客にとって良い体験とは何かをいきなり妄想して描くことは難しいです。仮に描けたとしても、それが事業として有効なのか、戦略に合致しているのかは分かりません。つまり顧客体験をDesignするとは、顧客体験を核とした事業システムをDesignすることに他なりません。
当連載ではCX Designをテーマとし、その要素をひとつずつ取り上げ、新規事業開発においてそれらをどのように考えていくべきかを解説していきます。
デジタル時代の到来によって大きく変わったのが、顧客に対して「あなたは誰か」ということが分かるようになったことです。
バーにふらりと入ってきた主人公が「いつもの」と呟くと、バーテンダーが何も言わずにバーボンのロックを差し出す。トレンディドラマ全盛期に育った世代としては、そんなことがカッコイイと思った若かりし頃もあった訳ですが、あれは正にバーテンダーが「あなたは誰か」分かっているからできることです。万が一「えっと、どなたでしたっけ」などと返されようものならコントにしかなりません。あなたは誰で、これまでどんなものを注文し、どんな好みがあるのか。場合によっては、今日は何曜日だからきっとこんな気分だろうとか、このあと誰が隣の席に来るかも阿吽の呼吸で分かっているかもしれません(やっぱりカッコイイ)。
ここまででは無いにせよ、顧客を識別するIDを整備することに多くの企業が取り組んでいます。銀行や保険など顧客識別が当たり前の業界だけでなく、いまは流通やメーカーなどでもその動きは盛んです。これまで流通ではチャネルや店舗ごと、メーカーではブランドや事業部毎に把握していた顧客情報を、企業全体で統一的なIDを設けることで個人を特定し、顧客理解をより深めようとしています。
2023年9月には、ソニーグループが顧客IDを全社で統一するという報道がされました(※1)。これまでゲームやエレクトロニクスといった事業会社や製品群毎に異なっていたIDを「ソニーアカウント」という1つのIDに統合するとのことです。顧客IDには顧客の名前・メールアドレス・住所・年齢・性別などの情報が入ります。2026年度までに統合する予定とのことですが、これが完了すれば共通IDを持つ会員数は世界で延べ1億人を超えることになります。
顧客IDが統合されれば、その顧客がそれぞれのデジタル接点でどのようなものを見て、購入し、コンテンツなどを含めてどのように使用しているのかを把握することもできます。さらにいえば、全社での顧客戦略の立案が可能になっていきます。どのような顧客がLTV(Life Time Value)で見れば上位に位置するのか、あるいは同一顧客が複数の製品や事業サービスを利用しているのであれば複数の横断的利用を促すことで、顧客のLTVを向上させていくことができるでしょう。
データによる顧客理解の進化によって、1990年代から概念として提唱されてきたOne to One Marketing(※2)が、いよいよ現実的な競争戦略として実現しつつあると言えます。しかしその一方で競争優位を獲得に向けた事業現場における実践を考えれば、「データによる顧客理解」だけでは不充分です。それはデータを網羅的に分析することは不可能であり、それぞれが示すものが過去の一側面に留まるからです。
もちろん大量の顧客の選択・購入・使用データが蓄積されれば、そこからの予測精度もあがっていくでしょうから、データの価値が高いことに変わりはありません。危険なのは「データで実証されることだけが正解である」という思考に陥ることです。顧客は常に変化しています。戦略とは変化に対して仮説を見立て、行動によってそれを実証していくプロセスに他なりません。顧客データはその良質な仮説を得るためのヒントを与え、その行動を実行する大きな力になりますが、戦略に答えを与えるものではありません。
私自身の経験では、こんなことがありました。競合激化の中にある商品を対象とし、コロナ禍の真っ只中で変化する顧客行動を理解しようというプロジェクトに取り組んでいたときのことです。対象となるカテゴリーも商品も、顧客の購買チャネルは大きくオンラインでの購買にシフトしているのは、データからも明らかでした。そこだけを見るなら、オンラインで買いやすい商品開発に注力するというのは、当たり前すぎる考えでした。しかし並行して行っていた顧客インタビューで、ある顧客がこう言ったのです。「その商品をオンラインで買うようになったのは、トキメキがなくなったからだ」。その方はオンラインで仕事をこなしつつ、小さなお子さん3人を育てる母親でした。忙しかった毎日がふっと途切れ、コロナ禍で家族と過ごす時間が増え、それによって一日の生活の中で「大切にしたい」と感じる時間が大きく変わったのだと言います。その方は家族との時間をより大切にするために、そこで使ういくつかの商品をこれまでのオンラインで買うのをやめ、わざわざ最寄り店舗に行き選んで買うようになりました。一方で対象となっていた商品は、その変化プロセスの中で「家族との時間に貢献するもの」という位置づけから外されました。結果として「わざわざ買いにいく必要のない商品」になり、オンラインストアからのレコメンドに奨められるまま、いつのまにか銘柄すら気にせずに買う存在になっていたのです。
もちろん「ではやはりオフライン重視で」という訳ではありませんが、こうなるとそもそもの課題が変わってきます。データ分析以前に、顧客変化をどう解釈するかによって立てる仮説が変わり、見るべきデータは変わってきます。
前述したソニーの記事では、以下のように記されています。「(ソニーグループは)世界1億人以上の顧客情報から事業を超えた連携の促進や、収益機会の深掘りにつなげる」。収益機会の深掘りは、販促の効率化(Promotion)だけで実現するものではありません。新しい課金方法の開発(Price)や、顧客理解から新しい製品やサービス(Product)を生み出すことも当然範疇になるでしょう。
つまり顧客IDの導入と顧客データ基盤の整備から事業革新を導けるかどうかは、顧客データを集め顧客IDを持つだけで決まるわけではありません。なんだそんな当たり前のこと、と思うかもしれません。しかし顧客ID統合や顧客データ基盤整備が膨大な労力を伴うからこそ、手段が目的化することは多々見られる陥穽です。
統合IDの代表的なもので言えば、Apple IDやGoogle IDなどが思い浮かびます。ひとつのIDでログインや買い物やサービスを受けることができて、大変便利です。顧客IDの統合は、顧客から見れば、自身の履歴を自身で管理し、かつ企業から最適な提案を受けることができるという価値があります。顧客にとって価値ある提案が行われるからこそ、その顧客IDの価値があがり、さらに顧客データの精度があがっていくという好循環を生み出します。
いまやすべての企業がデータ企業です。データをどのくらい保有しているのかではなく、それらをどう使えるかがこれからの競争を分けます。顧客を理解し、そこからよりよい顧客価値を実現できるかどうか。すなわちデータを正しく使う「技術」と顧客から傾聴する「技能」、その双方を組織として持ち得るかどうかが有益な顧客理解を実現するための要諦と言えるでしょう。
(※1)出典:日本経済新聞 2023年9月19日
(※2)One to One Marketingは、テクノロジーの利用によって競争優位を獲得する考え方として提唱された。
(D.ペパーズ・M.ロジャーズ著・井関利明監訳・(株)ベルシステム24訳「ONE to ONEマーケティング-顧客リレーションシップ戦略」1995, ダイヤモンド社)
1993年博報堂DYグループに入社。インストア・プランナー、クリエイティブ・ディレクター、ブランドコンサルタントとしての企業再生プロジェクト参画を経て、2012年にコーポレート・コミュニケーション・センターのセンター長に就く。Chief Project Managerとして、製造業・流通サービス業界を中心とした部署横断型の事業変革プロジェクト、企業ブランド構築プロジェクトの設計・推進を数多く手がける。
2018年9月株式会社顧客時間を設立。共同CEO代表取締役に就任。Head of Managementとして、顧客時間に参画する多様なスペシャリストと共に、数多くの業界・企業におけるDXプロジェクト・事業開発プロジェクトのサポートを行っている。
早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了(MBA)。日本マーケティング学会理事。
著書に『マーケティングの新しい基本』(共著、日経BP社)、『世界最先端のマーケティング 顧客とつながる企業のチャネルシフト戦略』(共著、日経BP社)、『オムニチャネルと顧客戦略の現在』(共著、千倉書房)、『物語戦略』(共著、日経BP社)、『ゲーム・チェンジャーの競争戦略』(共著、日本経済新聞出版社)、『イノベーションの競争戦略』(共著、東洋経済新報社)、『職人軍団、教科書なきイノベーション戦記』(企画、日経BP社)がある。