CXとは「Customer Experience」の略称で、つまり「顧客体験」のことです。「どのような顧客体験を実現するのか」というのは、新規事業を考えるときの基点となります。どんな商品・サービスも、それ自体に価値が包含されているのではなく、顧客が体験したときに初めて価値として認識されるためです。
では顧客体験はどのように描けばいいのでしょう。単に顧客にとって良い体験とは何かをいきなり妄想して描くことは難しいです。仮に描けたとしても、それが事業として有効なのか、戦略に合致しているのかは分かりません。つまり顧客体験をDesignするとは、顧客体験を核とした事業システムをDesignすることに他なりません。
当連載ではCX Designをテーマとし、その要素をひとつずつ取り上げ、新規事業開発においてそれらをどのように考えていくべきかを解説していきます。
CRM(Customer Relationship Management)の名著で「CRM-顧客はそこにいる」(東洋経済新報社)という本があります。著者である三谷宏治先生は私のビジネススクール時代の恩師です。三谷先生は、顧客との関係性変化が進むことを先見し、顧客基点のMarketing設計の要諦を記されています。この20年あまりでデジタルによって顧客と繋がれる環境はさらに進み、顧客は正に「そこにいる」という状況になりました。これに伴いそのつながりを構築する企業活動である「顧客提案」は、限られたチャネルを通して一方的に届けるものではなく、常時つながっているチャネルを通してオンタイムの対話によって双方向的に実現するものになりました。
顧客提案のための各要素をどう捉えるかという概念も、より顧客基点へと進化しています。その要素の一部であるチャネルについては、前回説明した通り「流通経路(Place)」(※1)という考え方から顧客との「共同活性化(Communal activation)」(※2)へと変容してきています。総じて言えば、顧客提案は提供側の企業がすべてを事前に作り込んだ固定的なものではなく、顧客に応じて柔軟に可変させるものになったということです。
例として、ここ5年ほどで急速に普及が進んだカーシェアを見てみましょう。Product(製品)にあたるのは、15分からの車両のシェアリングサービスです。近隣の駐車場に備えられた車両を、アプリなどから予約して好きな時に使うことができます。従来の店舗を拠点としたレンタカーの場合、多くは半日単位での貸し出しで、店舗の営業時間内での借受と返却が必要になります。これに対してカーシェアは車両が空いている限りは柔軟に延長や時間変更が可能なため、顧客にとっては買い物や送迎など日常使いがしやすいというメリットがあります。
もうひとつ注目すべき点は、カーシェアが顧客をサービスづくりに巻き込んでいることです。会員制度を設けている一部企業の例を見ると、給油をしたり無事故走行を続けたりするとポイントが溜まりさらに割安に使うことができるようになります。店舗を持たないカーシェアは、従業員による即時のガソリン補給や故障対応が行えません。そこでそれらを顧客に依頼する仕組みをつくっているのです。さらにアプリでつながっているので、これらのサービス情報やポイント情報を顧客ごとに「オンタイム」で届けることができます。
つまりカーシェアはデジタルを活用し、「顧客の近隣に位置する駐車場とアプリを場(Place)として、15分単位から利用できる車両シェアリング(Product)の価格(Price)と情報(Promotion)を、顧客に応じてオンタイムで提供する」というサービスモデルを築いている訳です。
もちろん従来のレンタカー企業もカーシェアを展開するようになっていますし、業界が違うのだから比較することに意味はないという見方もあります。しかし「車を借りる」という顧客体験(CX)を基点に見るのであれば、カーシェアはそれを実現する顧客提案の仕組み(Customer Service Model)を顧客基点にシフトさせたと言えます。業界区分を超えた異業種競争が起きます。重要なのはその顧客提案が顧客に受け入れられた時、業界区分が溶け、競争ルールが変わるという点です。
これまでのレンタカー業界では、機会損失が起こらない店舗あたりの車両保有台数、優れた接客とメンテナンススタッフが競争優位を築く大きな要因でした。この競争ルールで見れば、カーシェアはそれらを何も持っていないので弱者ということになります。しかしカーシェア業界で重要なのは、「駐車場」という拠点数です。15分単位で借りることができても、拠点まで30分かかるのでは意味がありません。できるだけ近隣に数多く拠点があり、そこに車両が分散している方が顧客にとっての価値は大きいです。この場合、カーシェアに乗り出している駐車場事業のトップ企業は、レンタカー業界の各社を大きく上回る資源を持っています。
仮にカーシェア事業者がレンタカー事業者の競合だと見た場合、そこにはこれまでと異なる競争ルールが持ち込まれたことになります。つまりデジタルの時代において「顧客基点で考えることが重要」なのは、それが生存競争に直結するからです。顧客基点で考えられたサービスモデルが業界の壁を壊し、市場の競争ルールを変えていく可能性があります。
さらに思考を進めてみましょう。レンタカーもカーシェアも、フォーカスを広げると「モビリティ業界」ということになります。モビリティ業界で近年問題になっているのは、タクシーのドライバー不足です。社会課題としてクローズアップされ、政策としても米Uberのような「ライドシェア」の検討が始まっているというニュースを良く目にするようになりました。
一方でそれほど大きな話題にならなったように感じるのですが、今年の4月に国土交通省でタクシー運賃の「ダイナミックプライシング」の導入を始めるという報道がありました。ダイナミックプライシングとは需給バランスに応じて価格を変動させるもので、実証実験の段階ではタクシーGOとUberが参加していました。今後は導入が認められた事業者はその時間帯の需要増減に合わせて、通常運賃と比べ5割引~5割増の範囲で料金を設定できるようになるといわれています。(※3)これらの動きは別のものではなく、明らかに一体的なものです。ライドシェアもダイナミックプライシングも、顧客と車両の位置情報や実車情報がオンタイムで把握できるからこそ可能になるのであり、配車アプリなどの顧客接点のデジタル化を前提としています。つまりモビリティ業界の顧客提案の仕組みが、顧客基点へとシフトする動きと捉えることができます。
では、自動運転の普及が進めば顧客体験はどうなるでしょう。「手元にアプリがあり、目的地を入れて車両を呼ぶと、時々や自分の利用履歴に応じて課金され、自動運転の無人車両が到着する」ことになります。そこにはもはや、その事業者がレンタカーやカーシェア、あるいはタクシーかライドシェアかといった区分は存在しなくなります。この時に最も大きな競争力を持つのは、車両や拠点を保有している事業者ではなく、顧客と車両をつなぐシステムを有する企業ということになると考えられます。つまり業界区分が溶け、競争ルールが変わる訳です。
モビリティ業界の競争変化を探ることは本稿の目的ではありませんが、このような思考実験を通して「デジタル時代における顧客提案とは、顧客を基点としたサービスモデル設計そのものである」という観点を持つことが重要でしょう。
(※1)出典:E. J. McCarthy「ベーシックマーケティング」1978(東京教学社) (※2)出典:Phillip Kotler, 「コトラーのマーケティング4.0」2017(朝日新聞出版) (※3)出典:2023年4月1日、日本経済新聞
1993年博報堂DYグループに入社。インストア・プランナー、クリエイティブ・ディレクター、ブランドコンサルタントとしての企業再生プロジェクト参画を経て、2012年にコーポレート・コミュニケーション・センターのセンター長に就く。Chief Project Managerとして、製造業・流通サービス業界を中心とした部署横断型の事業変革プロジェクト、企業ブランド構築プロジェクトの設計・推進を数多く手がける。
2018年9月株式会社顧客時間を設立。共同CEO代表取締役に就任。Head of Managementとして、顧客時間に参画する多様なスペシャリストと共に、数多くの業界・企業におけるDXプロジェクト・事業開発プロジェクトのサポートを行っている。
早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了(MBA)。日本マーケティング学会理事。
著書に『マーケティングの新しい基本』(共著、日経BP社)、『世界最先端のマーケティング 顧客とつながる企業のチャネルシフト戦略』(共著、日経BP社)、『オムニチャネルと顧客戦略の現在』(共著、千倉書房)、『物語戦略』(共著、日経BP社)、『ゲーム・チェンジャーの競争戦略』(共著、日本経済新聞出版社)、『イノベーションの競争戦略』(共著、東洋経済新報社)、『職人軍団、教科書なきイノベーション戦記』(企画、日経BP社)がある。