CXとは「Customer Experience」の略称で、つまり「顧客体験」のことです。「どのような顧客体験を実現するのか」というのは、新規事業を考えるときの基点となります。どんな商品・サービスも、それ自体に価値が包含されているのではなく、顧客が体験したときに初めて価値として認識されるためです。
では顧客体験はどのように描けばいいのでしょう。単に顧客にとって良い体験とは何かをいきなり妄想して描くことは難しいです。仮に描けたとしても、それが事業として有効なのか、戦略に合致しているのかは分かりません。つまり顧客体験をDesignするとは、顧客体験を核とした事業システムをDesignすることに他なりません。
当連載ではCX Designをテーマとし、その要素をひとつずつ取り上げ、新規事業開発においてそれらをどのように考えていくべきかを解説していきます。
CX Designとして「顧客にとって良い体験を描いてみる」ことは楽しいトライです。特にサービス業には顧客体験の美談に溢れています。
ホテルに眼鏡を忘れて困っている顧客のために、新幹線に自ら乗って届けにいったホテルマン。亡くなった伴侶の誕生日に、思い出の店に食事に訪れた顧客に、2人分のシャンパンを用意したレストラン。自社もそのようにありたいでしょう。しかし、もし想いだけでそれを描いたとしたら、その結果が事業において実効性を持ち、利益をもたらすものになり得るかどうかは甚だ怪しいものです。課題となるのは「どの顧客にどんな価値を体験として実現できれば、事業成長をもたらすことができるのか」です。
この「どの顧客に」を定義するのが、顧客戦略です。
このCX Designの前提として重要なポイントは、まず売上高を「顧客に置き直してみる」ことです。つまり「いつまでにどのくらいの売上高を達成するためには、『何人の顧客がどのような行動を取っていれば良いのか」を定めるということです。このような「売上高を顧客に置き直す」という考え方を、「顧客勘定」と呼びます。
商品基点の売上高とはいうまでもなく、「いくらの何がいくつ売れたか」(商品販売数?商品単価)です。これに対して顧客基点の売上高とは、「何人の顧客がいくらの買い物を何回したか」(顧客人数?購入単価?購入回数)です。どちらから積み上げても、結果として得られる年間の売上高は等しいものになります。(※1)顧客戦略とは、端的に言えば「自社の事業目標を達成するためには、どの顧客が、どの程度、どのように行動してくださることが求められるか」を可視化し、そのための道のりを決めることです。慶應義塾大学の名誉教授である嶋口充輝先生は、このことを「千客万来の仕組みづくり」と表現されています。「たくさんの顧客(千客)をつくったら、最低でも10回はリピートしてくれる(万来)顧客創造の仕組みが必要だ」。(※2)
(※1 出典:前田徹哉著「顧客勘定マーケティング」(日経BP,))
(※2 出典:嶋口充輝著「ビューティフル・カンパニー」(ソフトバンク クリエイティブ))
では自社の顧客はどんな構造になっているでしょうか。顧客戦略を立案する最初のアプローチは、まず現在の「①顧客基盤を可視化する」ことです。ひとつの例としては顧客を年間の購買金額ランクで区分したピラミッドを描く方法があります。下に行くほど年間購買金額は低く、上に行くほど年間購買金額は高くなります。多くの場合、顧客人数はこれに反比例し、下に行くほど人数は多く、上に行くほど人数は少なくなります。よく「2割の顧客で8割の売上を挙げている」などと表現される顧客構造は、正にこの構図で可視化されます。
顧客基盤が可視化できたら、次に行うのが「②顧客目標を立てる」ことです。顧客基盤における各層の推移を経年で見れば、極端に増えている層や、年々人数規模が減っている層、あるいは人数は同じなのに購買単価が下がっている層などを見つけることができます。このような傾向は業界特性を良く反映していることがあり、例えば高級商材を扱う小売などで見られるのが「中間層の消失」と呼ばれる現象です。縦軸の顧客ランクで中位にあたる層が、人数は減っていないのに購買単価が年々下がる傾向が見られることがあります。これらの現場が分かれば、「どの層をどの程度いつまでに引き上げるのか」という目標を定めます。もちろん最初は仮説を立てて実現性を検証していくしかありませんが、売上数字だけが独り歩きし、顧客を見ないまま目標を定めてしまうと、いたずらに販促費だけが掛かり続けるという結果にもなりかねません。どの層の強化が自社にとって重要なのかという目標が明らかになることは、その後の顧客体験の設計にも大きく影響します。
現状と目標の差分が、課題になります。次に行うのは「③引き上げたい顧客層の課題は何か(顧客課題)」を明らかにすることです。その顧客は、何を求めて、何を購買しているのか。顧客が求めているJOBを把握すれば、それらに対してのアプローチを決めることができます。顧客課題の設定は、定量的な顧客データ分析で行うこともあれば、ひとりの顧客にインタビューを行い、そのインサイトを探ることもあります。いずれにしても、引き上げたい顧客に「どう売るか」ではなく、「どう使っていただくか」を主眼として顧客課題を把握することが必要になります。
これらの顧客基盤の可視化、顧客目標の設定、顧客課題の可視化が、顧客戦略の領域になります。「お客様は誰か?どんな人で、どのようなことを欲しているのか?」この起点に立ち返ることは、誰にどのような顧客体験を提供するのかを考える大前提になります。日々顧客と向き合っているかのように見える小売などの業態でも、顧客の声を直接聞く機会がほとんどないという企業もあります。「あなたの顧客は誰か」、当たり前のこの問いに自社は答えられるでしょうか。デジタルで顧客とつながる時代においては、さらにその意識と行動が重要になっていくでしょう。
1993年博報堂DYグループに入社。インストア・プランナー、クリエイティブ・ディレクター、ブランドコンサルタントとしての企業再生プロジェクト参画を経て、2012年にコーポレート・コミュニケーション・センターのセンター長に就く。Chief Project Managerとして、製造業・流通サービス業界を中心とした部署横断型の事業変革プロジェクト、企業ブランド構築プロジェクトの設計・推進を数多く手がける。
2018年9月株式会社顧客時間を設立。共同CEO代表取締役に就任。Head of Managementとして、顧客時間に参画する多様なスペシャリストと共に、数多くの業界・企業におけるDXプロジェクト・事業開発プロジェクトのサポートを行っている。
早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了(MBA)。日本マーケティング学会理事。
著書に『マーケティングの新しい基本』(共著、日経BP社)、『世界最先端のマーケティング 顧客とつながる企業のチャネルシフト戦略』(共著、日経BP社)、『オムニチャネルと顧客戦略の現在』(共著、千倉書房)、『物語戦略』(共著、日経BP社)、『ゲーム・チェンジャーの競争戦略』(共著、日本経済新聞出版社)、『イノベーションの競争戦略』(共著、東洋経済新報社)、『職人軍団、教科書なきイノベーション戦記』(企画、日経BP社)がある。